看取り<後編>

 こんにちはゼイアースです。本日は看取りの後編を書きます。施設サイドから見たいわゆる看取り業務です。業務としての看取りですので、感傷的な内容は少なめです。また、ここで書く看取りは、医療的な処置(チューブでつなぐ、大きな病気の治療と闘いながら最後を迎える)がない状態で書いています。口から食べ物・飲み物を飲食できなくなった方が、そのまま最後を迎える時の流れです。いろいろな看取りがあるのですが、オーソドックスな1パターンと捉えて読むようにお願い致します。

 認知症が進んだり、何らかの病気が悪化してくると口から飲食できにくくなることがおこります。家族(本人に意思決定ができる状態であれば本人)に質問をします(書類に残してサイン・押印をいただきます)。内容は、今後命を繋ぐ為、点滴(持続点滴)や胃に直接栄養を送るチューブ(胃ろう)を入れますか。救急事態が起こった時に、延命を望みますか。と最後の時に向かって、延命治療への質問と同意をとります。ここで、家族(本人)は自分自身の寿命と今の状況にあらがうかどうかを考えていただきます。治療を施したとしても、苦痛と闘う日が長くなるだけと考えるかもしれませんし、家族からすると、現実問題として治る見込みがない事に金銭的負担を続けると、これから長く生きていく人たちの生活が壊れるというような、金銭的理由であることもあります。口から栄養や水分がとれなくなり最後の時を迎えるという事は、全ての生命が何十億年と繰り返してきた営みであり、自然の理のひとつでした。ここおよそ100年くらいでしょうか。医療技術が飛躍的に発展し、口から栄養がとることができなくなっても、生きていられるという状況ができたのは。それまで、何十億年と生命が繰り返してきた理に対し、たったつい最近別の選択肢が生まれたのです。しかし、それでも永遠に生きることはできません。今直面している命の危機に対しても、本質的には無力の状態です。人生とは尊いものですが、同時に終わりというものがあり、全ての生命には終わりというものにどう考えるかの問題なのです。答えに対し絶対的な正解や不正解など求めにくい問題です。そして、重たい問題です。この問題について、一旦の答えを出した家族(本人)に対して、福祉職員はできる限り添おうと行動します。一旦の答えとしたのは、尊い命の問題ですので、後で考えを変えるという事もOKなのです。その都度、意思を確認し、近い未来にいずれ訪れる最後の時の準備をしていきます。多くの家族(本人)がこのポイントを通過します。私は、この時の決断で人の性格はさまざまだとしみじみ感じます。自動販売機からジュースでも買うかのように(既に看取りの問題に対して考えや経験を持っている人ですね)、すぐに返答を返す人。時間をかけて考え抜く人。沢山の質問をされ、予備知識を集めてから判断する人。いろいろです。

 決断は人それぞれというポイントが重要なのです。ここまで命は尊いものだと書いてきましたが、これは【願い】であり非常に主観的なものだからです。例えば、命の尊さは地球1個分だとか、昆虫の命も人の命と同等だとか、命の重さを客観性をもった絶対値として、統一見解を具体化できていないのです。人が人の命の決断をする時、主観的に判断を行うのでいろいろな状況の整理を行うのは当然だと思います。この人の苦しみはどのくらいなのか。延命したとして喜ぶか。この人の治療代を試算すると、家族の生活はどうなるか。ここで最後の時を近々迎えるのであれば、自分の直近のスケジュールはどうなのか。私のパートナーはどう考えるだろうか。孫の悲しみはいかほどか。少しでも長く生きて欲しいのか。安楽に最後を迎える事が最優先か。もしかしたら、人によっては、今晩のご飯の悩みと同量の悩みになる人だっているかもしれません。それが人間というものであり、蓄積された経験に基づいて判断をするのです。その思考の中に、美しいストーリーばかり求めるのは独善というものかもしれません。

 どの決断も尊重されます(法に反しない限り)。この決断の中で、口から栄養や水分を補給する事ができなくなった時が、自然の摂理で最後の時を迎える時だと思った人は一般的な老衰という看取りに向かいます。社会資源の環境によって様々ですので、一概に言いにくいのですが、自宅や医師・看護師の体制が整ってない環境では選択される傾向が強くなると思います(統計データではなくあくまで私見です)。

 看取りに入る前の決断の説明が長くなってしまいました。前・後編もので予定していたのですが、後編の次の章を設けて、この続きを明日以降も書いていこうと思います。無計画に書いてすみません(>_<)宜しくお願い致します。

 

d払いポイントGETモール