<看取り後編その③>

 今回は、福祉施設で口から栄養や水をとることができない看取りが始まると職員サイドはどういう変化がでるか書いていきます。

 業務的な変化を結論から書くと、業務にはほとんど影響ありません。まず、看取り以降前に食事介助が必要であった場合、食事時間へかかる時間は減少していきます。なので、業務としての食事介助は、業務負担の軽減に向かいます。入浴については、居室清拭に切り替わった場合、業務効率上は基本的に変わりません。入浴(特殊浴)と清拭の得意・不得意は介護職員によってあるかもしれませんが、総じてかかる時間に大差ないとでしょう(利用者様に個別事情があり、入浴か清拭どちらか一方に特殊な配慮が必要な場合は別です)。他にも、今まで皆さんと食事やレクリエーション活動をしていらっしゃったのであれば、ベッドから活動場所(ホールやリビング)に介助で出ることは減少する事が多いですので、移乗・移動介助という面での介助業務は減少します。口喝や寂しさへの関りは、施設の方針によって大きく業務量が変わりますのでここでは触れません。全体的に看取りになると施設職員の介助量が減少傾向になっていきます。医療的な処置がある場合(例えば痰吸引(のどにある痰を機械で吸い取ってあげる行為)や褥瘡処置(栄養状態の悪化や自力で身動きできなくなると褥瘡(床ずれ)ができやすくなるので注意が必要です)、看護職員の実質業務も大きく変わらないことが多いです。看取りになると業務は軽減傾向になりやすいので、僅かかもしれませんが、職員が空き時間を感じる事があります。一方で、ご家族様の窓口になる職員(相談員・管理者・介護支援専門員など施設で決められた家族窓口業務者)は、家族に対して普段以上に配慮を欠かさないようにします。最後の時を迎えた後というのは、家族と施設との紐つきが切れてしまいますので、もし家族が不満を持っていたら、クレームとなりやすいからです。大切な家族を預けているうちにクレームを出す家族より、施設との関係が終了した後に「実はこういう事を思っていた」とクレームを出す家族の方が割合が高い傾向があります。普段からクレームがでないように、対応をとるという事が、この問題解決の本質的な道理ではありますが、そこは人のこころは分かりえない部分の方が多きいと思って下さい。本質的に分かりあえないからこそ、わかり合おうという努力をするのであり、最後の時を迎えた後というのは、わかり合えないが故のトラブルを避けるため、格別な配慮を行い連絡を取り合う必要があります。最後の時に向けて、動揺するご家族様もいらっしゃるでしょうし、まだ生きて欲しいと心変わりすることもあるかもしれません。コロナ禍で会えるか会えないかは施設の方針によりますが、本人様に会って語りかけたり、泣いたりすることが家族の癒しになることがあるかもしれません。熟練で慣れた家族対応者ほど、家族の気持ちに寄りそい、適切な範囲で共感スキルを発動させます。そして、動揺や慟哭などがひとしきり落ち着いたら、話しを切り替えたり本人の状況を説明します。分かって欲しいのです、家族様も自分自身が持っている気持ちが正であれ負であれ、土壇場を目の前にしてわかって欲しいからこそ発信するのです。熟練した職員程その気持ちを上手く掬い取り、癒し、施設に害ある気持ちに発展しないように次の方向へ向けます。共感は必要なスキルであり、一方で冷静に状況の推移を見定めているのがプロの対人支援者です。

 介護職員は看取りに向かってどんな気持ちになるのでしょうか。個人差があり、一概にどうだという事は個別性がでるので詳しく書くとご幣がでるかもしれません。概ねこんなパターンが多いという内容を書こうと思います。最後の時に徐々に向かっている場合、その時が来ることを周囲が予測できているので、こころの準備ができます。他の利用者様の生活はあるわけですし、仕事もたくさんあります。なだらかに最後の時にむかっている最中に、大きな感傷に襲われる職員は比較的少なめな傾向です。ただし、最後の瞬間の経験が浅ければ、泣いたり動揺を示したりすることもあります。それは、人の命に限りがあるという実体験が少なく「これでいいのだろうか?」という迷いがこころを掠めることがあるからです。情報が上手く伝わっていなくて、最後の時の重大さに自分の責任で何か悪い事になってしまうのではないか「人ゴ露市をしているのではないか」と、鋭敏な思いを想起したりすることもあります。多くの経験の少ない職員がこうなるかというとそういう訳でもありません。組織としていかに方向性が固まり伝わっているか、又は、最後の時に向かう介護に対して、経験が少ない職員をフォローできるかといった組織体制が、看取りに向かって惰弱な面を補強することができます。ですので、看取りの経験が少ない組織がやみくもに看取りを行うと、組織体制や職員同士の関係にヒビが入ることもあります。そして、その日がくると知っているはずなのに、看取りになった瞬間に情動的に涙腺崩壊し収集がつかなくなることもあります。これらの例は、あくまで起こりえる危機的な状況の説明であり、そうなる可能性が高いというわけではありません。一方で、看取りを何度も行っている職員はどうでしょうか。ほとんどの熟練した看取り職員のこころは通常運転です。熟練した職員程、必要なポイントできちんと悲しむ事できます。その場でおこる事象だけ見れば、経験の浅い職員同じように見えるのですが、悲しむ・泣く・話すという行為が、周囲に対し何らかの効果を求めるようと立ち振る舞うという感じです。これは巧者としての立ち振る舞いであり、本質的には冷静です。最後の時に向けて、家族が泣いているの場面に立ち会って、一緒に涙するのは、言外に家族様への気持ちの理解を効果的に示していることになることもあるでしょう。なぜ、このような立ち振る舞いができるのでしょうか。例えば、大規模な災害や戦争の地で、人の最後を沢山見たとしましょう。そういった経験を繰り返しした人は、人が最後の時を迎えるている事が特別なことではないという感覚になってしまうという話しを聞いたことがあります。そこに最後を迎える人がいたとしても、それは日常的であり、当たり前のことなのです。自分自身は、次の瞬間も生きなければならない事は確定しているし、今夜の晩御飯の食材だって、今の瞬間を通り過ぎれば問題として自分に降りかかることを知っているのです。日常的な事にこころを大きく動揺はさせません、しかし、必要で適切な行動をとろうとします。だから、今泣く必要がなければ粛々と業務勤しむ行動が間違いではないことを理解しています。そのおかげで、他の入居者様の生活が安定するのですから。自在とは、こういう状態をいうのでしょう。家族様が手を握りしめて、涙を流しながら最後の時を迎える本人に面会をする必要を感じるのであれば、わかっていれば、家族様が施設にくるまでに仕事を片付け、関われる時間を準備しておきます。家族様が悲しむことができるように空気感や環境を整える配慮をしたり、一緒の場にいれば悲しんだり泣いたりできます。家族が帰れば通常運転で業務を再開します。生きるのに前向きだからこそ、とっている行動なのです。

 看取り<全編>で書きました、私が駆け出しのころもっていたイメージとは、まさに、こうありたいという経験の少なさが故にもっていた理想イメージでした。プロとして、その場を作り上げるという気概もなく、ただただ、自然発生的にそうなるのが正しいのだろうと信じ込んでいたお花畑でした。お花畑で楽しむ子供は、お花畑を整備している人がいるから、毒虫や毒草・猛獣の危険を感じることなく戯れることができるのです。拙い頃の私のイメージは、間違いとも言い切れないのですが、プロとして関わるのなら、人が必要な時に適切に泣いたり、悲しんだりできる環境を準備してあげたいと思います。

 

 看取りについてまた別記事で書けたらいいなと思います。全4編になってしまいました。まだまだ、書きたいことはあるのですが、それはアクセス数の伸び次第ということで。次回はアフィリエイトを学ぶつもりで始めたブログですが、おもいの他おもしろくてびっくりしています。これからも続けていきたいという意欲が満ちています。アフィリエイトは少しかじれたので、次はWordpressを長期計画でできたらいいなと思います。このページを開いてここまでみて下さった読者様、本当にありがとうございます。アクセス数の伸びがモチベーションになっております。これからも宜しくお願い致します。

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